【Daily Choppy !】第7回:「客観的」とはどういう事だろうか

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こんにちは。チョッピーです。

突然ですけど、皆さん、自分自身を客観的に見る事って出来ますか?
僕はあんまり得意ではありません。あんまり得意ではないというか、ほとんど壊滅的なレベルで出来ない…と言った方が正確かもしれません。

ただ、だからと言ってそれを引け目には感じていないのですが。それが得意ではないからこそ「ふらとぴ」の立ち上げ&運営が出来ているというところもあるのではないかと思いますし。

「主観的なモノの見方が得意な人」にも「客観的なモノの見方が得意な人」にも、そのどちらにも、それぞれの得手不得手があると思います。たぶんだけど「主観的なモノの見方が得意な人」の方が創造力や突破力は高いんじゃないのかな…と思っています。対して「客観的なモノの見方が得意な人」の方が調整力や持続力は高いのではないかと思っています。

それぞれのモノの見方で得手不得手が出てくるのであれば、物事のフェーズに合わせて「主観的なモノの見方」と「客観的なモノの見方」の両方を使い分ける事が出来た方が嬉しいですよね。立ち上げフェーズでは「主観的なモノの見方」で突っ走って、運用フェーズでは「客観的なモノの見方」で順当に進めていく。これはモノゴトの理想的な進め方である様に思えます。

ただ、そんな事はもしかしたら不可能なのかもなぁ…とも思います。
少なくとも僕には「客観的であることは人間には実現不可能なのではないのか?」と思えてなりません。

だって、本当に「客観的であること」が多くの人に出来るのであれば、選挙で落選しそうな主張をしたりする人や、あまり人気の無い政党に入党する人なんていなくなると思いませんか?
選挙では「多くの人の支持を集めた人」つまりは「より客観的な意見・立場であれた人」が当選するわけですから「人は客観的であれる」のであれば、候補者にとって生活の一大イベントである選挙において「主観的な意見・立場」になんて、なるわけが無いと思うのです。

まぁ、この主張はただの特殊な例を根拠に帰納的に述べているだけですし、そもそも「それは人が時には自分の利益を度外視してでも主観的に行動する事がある事の事例にはなっても、人が客観的になれない事の根拠にはならない」と言われれば、確かにその通りなのですが。

でも思うんですよね。そもそも簡単に「客観的視点」とか言いますが、ここでいう「客観的視点」とは具体的に「誰」の視点の事を指すのでしょうね。

主観的視点に関しては、まだ、わかりやすいかな…と思います。「僕」にとっての主観的視点は「僕の視点」です。(僕とは何か…とか考え出すと、また、思考の迷宮に入り込んでしまうのですが、いったんは、その問題はここでは棚上げにします)

じゃあ「客観的視点」とは「誰の視点」なのか?

「僕」のケースでいえば、例えば、今、この文章を読んで頂いている「あなた」の事でしょうか?
「あなたの視点」が「僕にとっての客観的視点」なのでしょうか?

「僕とあなたしかいない場」においてはそれが正解かもしれません。
でも、「僕とあなたと他の誰かがいる場」においては、それは正解ではない気がします。

そういう風に考えると「客観的視点」とは普遍的なモノではなく、場所・時代・社会が変われば、容易に変化する「捉えがたい何か」だと言えるのかもしれません。そんな不確かなモノを獲得する事が人間に可能なのでしょうか? 仮にそれを獲得できた人がいたとしても、対象物自体が時と共に変化していくわけですから、その人は常にそれをアップデートし続けていかなければいけません。そんなこと、出来るのでしょうか。そもそも、どうやって、それを「獲得した」と証明するのでしょうか。結局のところ「客観的」などという状態は、本当はどこにも存在しない幻の様なモノに過ぎないとも言えるのではないでしょうか。

答えの出ない迷宮に入り込んでしまいました。

どうして突然、こんなよくわからない話をし始めたかと言うと、今日、ちょっと自分を被写体に動画を撮影したのですが、その動画を観たある人に、自分では思ってもいなかった感想を言われまして「たとえカメラで自分を客観的に観察したとしても、そもそも自分が持っていない観点からは自分自身を評価する事は出来ないんだなぁ…」と感じた事をきっかけに「客観的ってなんなんだろうなぁ…」と考え始めたからです。しょうもないですね。しかしながら、たまには、こういう無為な疑問を考えてみるのも楽しいかもしれません。

本日もふらとぴに訪問頂きありがとうございます。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

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