【Daily Choppy !】第612回:コンテンツ作りも感情労働である説

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こんにちは。量だけは多く作っている人、チョッピーです。

コンテンツ作りも感情労働である説
コンテンツ作りも感情労働である説

感情労働

「感情労働」という言葉がある。

感情労働とは

「感情労働」とは、アメリカの社会学者A.R.ホックシールドが提唱した働き方の概念で、感情の抑制や鈍麻(どんま)、緊張、忍耐などを不可欠の職務要素とする労働のことです。体力を使って対価を得る「肉体労働」やアイデアなどを提供する「頭脳労働」に対して、感情労働に従事する者はつねに自分自身の感情をコントロールし、相手に合わせた言葉や態度で応対することが求められます。

感情労働とは|コトバンク

コトバンクから引用した上の説明文には『感情労働に従事する者はつねに自分自身の感情をコントロールし、相手に合わせた言葉や態度で応対することが求められ』るとある。

つまり感情労働では「自分が自然に抱いている感情に合致する言葉や態度」とは違う言葉や態度を日常的にアウトプットする必要が出てくるのだろう。本当は怒っていたり悲しんでいたりしていたとしても、微笑みを浮かべながら穏やかな言葉づかいでお客様に対応しなければいけないシーンもあるかもしれない。

感情労働が必要となる職種としては接客業や営業職などがすぐに思い付く。医療・福祉職も感情労働の側面は強いだろう。これらの職種はお客様と直接コミュニケーションを行う必要があるからだ。

それらの業種に就く人々が本来の感情…たとえば怒りなどをストレートに表現したままお客様と接してしまうのはお仕事的によろしくないだろう。

チョッピー
チョッピー

たぶんクレームが入っちゃいますね

だが、接客業や営業職以外の多くの職業においても「感情労働」が必要とされるケースはあるように思われる。

およそ「コミュニケーションが必要とされる職種においては少なからず「感情労働」の側面があると言えるのではないだろうか。そして「コミュニケーションが不要な職業」などはおそらくこの世にほとんど存在しない。つまり「ほぼ全ての職種において感情労働が必要となるケースはある」と言えるのではないかと思う。

感情労働は疲れる(気がする)

さて、この感情労働、一般的に「バーンアウトに陥る可能性が高い」とされているようだ。

バーンアウトとは

「バーンアウト」とは、燃え尽きるという意味で、心身のエネルギーが尽き果てた状態を指す表現です。それまでひとつのことに没頭していた人が、心身の極度の疲労によって、ある日突然、まるで燃え尽きたかのように意欲を失い、社会に適応できなくなってしまうことを「バーンアウトシンドローム」(燃え尽き症候群)といいます。

バーンアウトとは|コトバンク

どうやら「感情労働」という言葉の提唱者であるA.R.ホックシールドがその著書「管理される心―感情が商品になるとき」で「労働者があまりにも一心不乱に仕事に献身し、そのために燃え尽きてしまう危険性のあるケース」について言及しているため、そのように関連付けられるケースが多いようだ。

ただ、目白大学の「感情労働が職務満足感・バーンアウトに及ぼす影響についての研究動向」という論文によると

感情労働が及ぼす影響について、一致した結果が得られていないということは、感情労働が労働者にとって常にネガティブな影響を与えるわけではなく、労働者の商業生活にポジティブな影響をもたらす可能性があることを意味する。

感情労働が職務満足感・バーンアウトに及ぼす影響についての研究動向|目白大学リポジトリ

とある。もしかすると「感情労働は精神の疲労をもたらす」と断言してしまうのは不適切であるのかもしれない。

チョッピー
チョッピー

確かに僕も今回の記事を書くために「感情労働のもたらす悪影響」を調べてみたのですが、なんだか断定的に「感情労働は悪!」と呼べるようなデータは見つけられなかったんですよね。僕の調査能力が低いだけなのかもしれませんが。

ただ、僕の経験に基づく個人的な意見を述べさせて頂くと感情労働は間違いなく疲れる

僕も前職でシステムエンジニアとして顧客対応や各種のマネジメントを行っていた経験がある。そこでは間違いなく感情労働が行われていた。あれは本当に疲れるモノだった。

その結果、バーンアウトやその他の精神的な問題が現れても何もおかしくないと僕は思う。

コンテンツを作る作業にも感情労働の側面があるのでは

ここで少し話題を変える。コンテンツについてだ。昨日の『Daily Choppy !』(第611回↓)で僕は次の文章を書いている。

もちろんシステムエンジニアとして活動するために必要な文章を書く作業はしていました。メールを書いたりとか、システムの設計書を書いたり…とか。でも、それらの文章とライターが書く文章は種類が違います。具体的に言うとそれらの文章には「感情」を乗せる必要がありません。

【Daily Choppy !】第611回:自分が読みたいことを、人のために書く|ふらとぴ

これは逆に言うと「ライターが書く文章には感情を乗せる必要がある」となる。

チョッピー
チョッピー

こう書いてしまうと、ちょっとここでは「ライター」という言葉を大雑把に使いすぎている感がありますね。テクニカルライターの方や純粋に事実を伝えるニュース記事のライターの方が書く文書には感情は不要な場合も多いと思いますので。厳密にここで言うライターの意味を定義すると「エッセイや小説などのエンタメ要素がある文章を書く人」になるかと思います。間違っても「火をつける道具」ではない。

事実を記録した文書にはエンタメ性がない。少しでもエンタメ性を出そうとするならば、そこには感情が必要となる。感情が必要となると言っても、書いている人がそこで感じているモノをそのまま表してはいけない(と僕は思う)。

なぜならば読者は「ライターの個人的な感情」などに興味はないからだ。少なくとも僕はそれに興味を持てない。

プラスの感情であれば、まだ、いい。誰かが喜んでいる姿は、それが他人であろうと微笑ましいものだ。ただ、マイナスの感情は勘弁してほしい。知らない人の個人的な怒りや悲しみの発露を味わわされるなんて全く嬉しくない。

たとえば「知らない誰かが喫茶店で従業員に怒鳴り散らしている場面」に出くわしてしまって嬉しくなる人は、そんなにいないハズだ。多くの方は不快になるハズ。文章もそれと同じだと思う。

怒りや悲しみを表現したいなら、それに公共性をもたせたり、面白みをプラスして「美味しく食べられる状態」に加工しなければいけない。そうしなければお客様は満足しない。少なくとも僕が客だったら満足しない。

つまりライターであろうとも自分が書く文章に少しでもエンタメ性をもたせようと思えば、自分の素直な感情とは異なる感情をアウトプットしなければいけない。これは感情労働と言って差し支えないのではないだろうか。

マネジメントにも気を付けないと

僕は「ふらとぴクリエイター」として日々、コンテンツを作っている。また、今後は「ふらとぴ編集部員」として僕以外の「ふらとぴクリエイター」のマネジメント的な業務を行う必要も増えてくるハズだ。

チョッピー
チョッピー

というか増えていかないと『ふらとぴ』事業が行き詰まっちゃう。ふらとぴ事業はそういう風に発展していくビジネスモデルを想定しているから…。

コンテンツを作るのには感情労働的な側面がある。よって、疲れる(場合もある)。コンテンツ作成に対して、この認識を持つのはメンタルヘルスのマネジメントに大事な気がする。

コンテンツを作っているのは機械ではなく人間である。アウトプットと引き換えに誰かの肉体・精神は摩耗している。摩耗した肉体・精神は適切にケアしなければ不幸な結末を招く(場合もある)。

自分自身のケア、他者のケア両面で気を付けていきたいと思う。

本日の締め

今回は僕の考える「コンテンツ作りも感情労働なのではないか説」について書いてみました。

『ふらとぴ』運営を始めてからずっと「システムエンジニア時代と比べて書いている文字の量にはそんなに変わりがない気がするのに、文章を書き終わった後の疲れは今の方が大きい…疲れの質も少し違う気がする…」という感覚がありました。

おそらくこの原因はシステムエンジニア時代よりも「文章でお客さんを楽しませる」という意識が強くなっているからなのではないか…今回の記事はそんなひらめきを起点に書かれています。

コンテンツに関わる方のなにかしらの参考になれば幸いです。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

うーん、少し前から「だ・である調」で『Daily Choppy !』を書く実験をしているのですが、どうも少し堅苦しい文章になりがちな気がしますね。「ですます調」に戻すかもしれません。

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