【Daily Choppy !】第712回:とても簡単な自己分析

Daily Choppy ! アイキャッチ画像2Daily Choppy!

こんにちは。自分探しの旅はした事がありません、チョッピーです。

とても簡単な自己分析
とても簡単な自己分析

チョッピーはデジタルネイティブ?

もはや少し古い言葉のようにも思われるが「デジタルネイティブ」という言葉がある。

デジタルネイティブとは

生まれたときから、あるいはものごころついたころから、デジタル技術やそれを活用したゲーム機、携帯電話、パソコン、インターネットを代表とする新たなメディア環境のなかで育ち、生活してきた人々をさすことば。1980年代以降に生まれ育ってきた世代である。「ネット世代」と称されることも多い。

デジタルネイティブとは|コトバンク

僕は1985年生まれなので、上の定義に従えば僕もデジタルネイティブに含まれるらしい。

ただ、正直に言って、僕は自分自身をデジタルネイティブだとは思っていない。

確かに「ゲーム機もデジタルツールだから、ゲーム機と一緒に育った人はデジタルネイティブだよ」と言われれば(納得はいかないながらも)「まぁ…そうかもしれないね」としぶしぶ同意せざるを得ないのだけれど。

チョッピー
チョッピー

1983年にファミコン発売、1990年にスーパーファミコン発売、1994年に初代プレイステーション発売…と1985年生まれの僕ことチョッピーの青春は当時の覇権ゲーム機と共にあったと言えます。

ただ、上に引用した説明文にもある通りデジタルネイティブは『「ネット世代」と称されることも多い』らしい。この文脈でデジタルネイティブが使われる場合に限っては、僕は明らかにそれには該当しないと感じている。

チョッピーはネット世代?

「ネット世代」とは、インターネットが生活に深く入り込んだ時代以降に生まれた方々、つまり1995年以降に生まれた人を指す言葉なのではないかと僕は感じている。

チョッピー
チョッピー

もっと端的に言えば Windows95 が発売されてから生まれた人々だと思っています。

もちろん、これは僕の個人的な考えなので、読者の方の中には同意できない人も多くいらっしゃるかもしれない。実際、インターネットの技術要素はそれよりはるか昔から存在しているし。(参考:インターネット歴史年表 – JPNIC

個人的には同じデジタルツールと言えども「ネットに接続できるデジタルツール」と「ネットに接続できないデジタルツール」には大きな違いがあると思っている。

こんなテーマはすでに議論され尽くされていると思うので、サクッと個人的な結論を述べると、その違いの正体は「インタラクティブかそうでないか」だ。要は双方向性の有無

つまり「ネット世代」とは「生まれた時から自分が気軽に発信できる手段を持っていた人々」のことを指す言葉だと僕は感じている。なので、僕はネット世代でもないし、ひいてはデジタルネイティブでもない。

チョッピーのスタンス

ネット世代でもないしデジタルネイティブでもないと感じているので、そう思うのかもしれないが、僕はいまだに「自分で情報を発信できる立場」というモノに違和感を感じている。(自分で『ふらとぴ』というメディアを立ち上げ、毎日、記事を書いておきながら言うのも変かもしれないけれど)

「外に出す情報」に関しては自分以外の誰かにチェックをしてもらってからでないと、社会的な価値は出ないと感じているのだ。

チョッピー
チョッピー

なので、『ふらとぴ』に掲載されているコンテンツは全て制作者(ふらとぴクリエイター)以外の誰かによるレビューがなされています。レビュー基準も設定しています。

だから、個人的には「無編集で書き殴られている文章」は全て「編集済みの文章」とは異なるスタンスで読んでいる。

具体的には「どこかの誰かが、極めて個人的な視点・思考で述べた、参考程度にしかならない文章」だという読み方をしている。

たとえ、その文章を発信している人にどれほどの地位や名誉や権威があろうと、そのスタンスは変えていない。学者でも文筆家でもそうだ。

その人がその地位を得られた理由は「査読や編集が終わった文章」にあるのであって「査読や編集がされていない文章」にあるわけではないのだ。ましてや「その人自身」などにあるわけがない。

チョッピー
チョッピー

僕は「錯覚資産」とか「後光効果」とかにはダマされないように気を付けています。

さて、僕はそんなある種、斜に構えたような態度で世に溢れる「無編集の文章」を読んでいるわけだが、かといって他人の「無編集の文章」が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。

だから Twitter も好きだし、誰かの読書感想文や映画の感想を読むのも好きだ。

自分を知りたければ他の人の作品を味わおう

先日、『エターナル・サンシャイン』という映画を観た。

上のツイートに書いた通りSF要素の強い作品であり、最後の演出にもそれらしいモノが施されていた。僕はそれにストーリー上の意図があるのかないのかが気になった。

「他の人はどう考えたのかなぁ…」と思い、映画のレビューサイトを訪れ、そこに掲載されている沢山の感想を読んでみる。結局、最後の演出の意図に関してはわからなかったが人の感想を読むのは楽しい。

そんなわけで感想を読みふけっていたら、ふと、映画自体の中身とはまるで関係のない考えが頭をよぎった。

チョッピー
チョッピー

これ…映画の評価って言うよりも「私はこういう評価観点を持っている」という自己紹介だな…。

そうなのだ。

それでお金を稼いでいるプロの批評家はどうなのか知らないが、映画のレビューに限らず、およそ一般の方がなにかしらのプロダクトに対して感想を述べている文章は、基本的にその人の好き嫌いを基準に書かれている。

極論すれば「そのプロダクトをどれだけ好きか or 嫌いか」という観点だけでプロダクトを批評しているわけだ。

それって結局のところ「私は○○が好きです」とか「私は××が嫌いです」の言い換えに過ぎない(と思う)。

口コミや感想を書いている人は、きっとそうは思っていないと思う。「自分は○○という作品についての感想を語っている」と思っていると思う。もちろん、僕もなにかについての感想を書く場合は、そう思いながら書いている。

だが、おそらく実際にそこに表されているモノは「○○についての感想」ではなく「○○について語っている自分自身」なのだ。

なにかについてなにかを感じた場合は、それを言葉にしてみると良いかもしれない。そこに表されたモノが、すなわちその人自身なのだろう。

本日の締め

今回は僕の考える「効果的な自分探しの方法」を書いてみました。

おそらく何の道具も使わずに「自分とは…」と思慮にふけっても、あまり得るモノはないのではないかと思います。自分を知りたくなった時こそ、他の人が作った何かを味わうと良いのかもしれません。

そこで何を考えるかが、すなわち自分自身という事でしょう。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

プロの批評家の方は、一体、どうやって「自分の個人的な感想」を乗り越えて「社会的価値のある批評」を書いているんでしょうね?

タイトルとURLをコピーしました