【Daily Choppy !】第750回:混ぜるな危険

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こんにちは。無類のアウフヘーベン好き、チョッピーです。

混ぜるな危険
混ぜるな危険

僕のあなたの市場価値

突然だが、皆さんはご自分の市場価値がどの程度の額なのかを把握されているだろうか?

僕はもちろん把握していない。

チョッピー
チョッピー

自分から話を振っておいて、なんだそれは。

まぁ、確かにそうなのだが、市場価値という観点で自分を捉えた事がないので仕方がない。

33歳で独立して、その後の2年間の収入がほぼゼロ円の人間の市場価値なんて考えるだけ無駄だし。

そもそも「自分の市場価値」というモノは、具体的にどこで値付けられるのだろうか? まさか、人間を売買する市場があるのか?

…え、人間を売買する市場? それって人身売買…ってコト!?

なんだか恐ろしくなってきたので「市場価値」の意味を調べてみた。

市場価値とは

経済学で同一生産部門の商品全体の平均価値。市場での競争によって決定され、市場価格が成立する基礎となる。社会的価値ともいわれる。また、一般に、世間での価値をいう。

市場価値とは|コトバンク

「商品全体の平均価値」…!?

やはり人間を商品として売買している市場があるのか…? この現代社会において、まだ、そんな闇深い市場の存在が許されているなんて…。

チョッピー
チョッピー

盛り上がっているところ悪いんだけど、人間に対して「市場価値」って使う場合は↓の事を指してると思うんだけどなぁ…。

人材市場価値とは

個々の会社員について、仕事の内容、能力、本人の性格特性などから、現在の人材市場での年収相場はいくらかを示したものです。雇用流動化の時代、転職希望者の増加につれ、市場価値を算定するサービスが広まっています。

人材市場価値とは|コトバンク

あ、そうなんだ…。年収の相場…。なんだ、そうなのね。

てっきり僕は自分に値札がつけられて売買される市場があるのかと…。

チョッピー
チョッピー

…まぁ、でも、それも当たらずとも遠からずなイメージではあるかもね。転職先企業が自分を買う値段だと考えれば…。

じ、自分を買う!?

やっぱり人間も売買されているのか…。この現代社会において、まだ、そんな闇深い市場の存在が許されているなんて…。

チョッピー
チョッピー

いや、あの…たぶん、そうではないと…思うんだけど…。うーん。

ヒトは資源?

人間にも「市場価値」がある。という事は、人間も商品なのだろうか?

この問いに対して「YES」と回答する人は意外と多くいるのではないかと思う。

確かに現代社会はあらゆるモノがお金で買えるように見える。であれば、人間ですら売買可能なのかもしれない。

実際、企業は雇用契約という形で人間を買っているようにも見える。さらに、それを「経営資源」という言葉で表したりもする。

経営資源とは

企業が事業展開のために利用することのできる資源。伝統的には「ヒト,モノ,カネ」といわれ,(1) 従業員などの人的資源,(2) 所有する土地,建物や設備などから成る物的資源,(3) 資金力や資金調達力で示される財務的資源の3つがあげられたが,最近はそれに加えて (4) 企業に蓄積され,また利用可能な情報的資源が重要視されている。

経営資源とは|コトバンク

資源のひとつとして「ヒト」や「人的資源」が挙げられている。ということは、やはり企業は人を購入していると言えるのか?

僕はそうは考えていない。人間は商品ではないので売買は出来ない。

経営資源の表現として「ヒト」や「人的資源」を使うのも間違っていると思う。正確には「労働力」という表現を使うべきだと思っている。

「労働力」を経営資源として表現する場合に、「ヒト」や「人的資源」という言葉を選択したり、転職する際の年収の相場に対して「人材市場価値」という表現を使うのは、「その人の人間としての価値」と「その人が発揮できる労働力の価値」との混同を招く危険な言葉の使い方なのではないかと思っている。

Life is beautiful

「その人の人間としての価値」と「その人が発揮できる労働力の価値」が混同されると、どの様な危険があるのだろうか?

答えは簡単だ。

「その人が保有する資産」や「その人が稼ぐ金額」によって「その人の人間としての価値」が定められてしまうのだ。実際にはそれは「その人の人間としての価値」ではなく「その人が発揮できる労働力の価値」に過ぎないのだが。

この誤謬に気付かぬまま考えを進めると「お金を稼げる人が偉い」や「お金を稼げない人は偉くない」などの帰結に行きついてしまう。極端な場合には「お金を稼げない人間には生きる価値がない」にまで行きついてしまう場合もあるかもしれない。

この考え方は(少なくとも現在の日本社会においては)完全に間違っている。

封建主義や奴隷制度が生き残っている社会であればいざ知らず、現在の日本社会においては「ある人の人間としての価値」は立場や収入の多寡に関係なく誰しも一定であり、誰からも尊重されなければいけない。

それが人権思想の基本的な考え方だろうし、実際、それは生存権や幸福追求権として法的にも保護されている。

「その人が発揮できる労働力の価値」と「その人の人間としての価値」には何の関係もないのだ。

その商品の値段は変動する

さて、これまで 「その人の人間として価値」と「その人が発揮できる労働力の価値」の混同について「『その人の人間としての価値』を『その人が発揮できる労働力の価値』で測るべきではない」という観点から語ってきた。

正直、この観点からの主張は色々な場所でよく見かけるモノでもある。

個人的には、この観点からの主張だけでは片手落ちだと感じる。この主張に価値をもたせたいのであれば、逆の観点からの主張も合わせて語るべきだと思う。

つまり 「『その人が発揮できる労働力の価値』を『その人の人間としての価値』で測るべきではない」 という主張も合わせて述べなければならない

人間には生きているだけで価値がある。ただし、労働力はそうではない。

ある人が発揮できる労働力の価値には、紛れもなく多寡がある。労働力は(人間と違い)商品だからだ。

商品であるので、その価値も通常の商品と同じ方法で測られる。

より多くの量を短い時間で発揮できる方が価値が高いし、ありふれたモノよりも珍しいモノの方が価値が高い。

もし「自分が発揮できる労働力の価値」を高めたいと思うのであれば、人はそれを磨くべく努めなければならない。

「生きているだけで価値がある」は正しい。ただし、それは「その人の労働力の価値」とは何の関係も無い。

本当に単純に生きているだけだと「その人の労働力の価値はゼロ」となってしまう場合も、無いとは言えないだろう。そうなると、なかなか幸福感を感じながら生きていくのは難しくなりそうだ。

だからと言って「その人の人間としての価値」が無いわけではない。どの様な立場・能力であろうと、人間には生きる権利があるし、幸福を追求する権利もある。それも間違いのない真実ではある。

本日の締め

今回は僕の考える 「『その人の人間としての価値』と『その人が発揮できる労働力の価値』の関係の無さ」についてのお話を書いてみました。

個人的な印象に過ぎませんが、経済的な視点から人間を見る場合には 「『その人の人間としての価値』を『その人が発揮できる労働力の価値』で測るパターン」が多く、福祉的な視点から人間を見る場合には 「『その人が発揮できる労働力の価値』を『その人の人間としての価値』で測るパターン」 が多いような気がしています。

これに関してずっと「実際にはどちらも正しくないんじゃないかなぁ…」というモヤモヤとした気持ちがあり、それに決着をつけるために今回のお話を書いてみました。読者の皆様の何かの参考になれば幸いです。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

労働力は磨かなければ価値が上がらないけれど、だからと言ってその人自身に価値がないわけではない。その人自身には生きているだけで価値があるけれど、だからと言って労働力にも自然と価値がつくわけではない。

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