【Daily Choppy !】第618回:多様性への道程

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こんにちは。カオス好き、チョッピーです。

多様性への道程
多様性への道程

ツイ廃の戯言

僕ことチョッピーはTwitterをよく使う。別にTwitterが好きなワケではない。Twitterには人の欲が溢れている。金・成功・性…みたくもない人間の汚らしさが日々、量産されている。あんなサービスを好む人間にロクな奴はいない。僕はそういうヤツらとは一線を画している。Twitterに囚われているわけではない。Twitterを使いこなしている。Twitterに遊ばれているわけではない。僕がTwitterで遊んでいるのだ。

チョッピー
チョッピー

Twitterが好きなヤツはみんなそう言うんだ

でも僕はツイ廃じゃないので…。

チョッピーのTwitterの使い方

基本的には日々、くだらないツイートを投稿する使い方をしている。こんなの↓とか。

他には本サイト『ふらとぴ』の記事を始めとする「気になった記事」のシェアをしたりとか。

チョッピー
チョッピー

なんか最近は記事のシェア等の「Twitterの外に人を出すリンク」的な投稿がTwitterから嫌われてる感もあるんだけどね。個人の感想ですが。

他人の投稿にリプライ(返信)をする事は滅多にない。「独り言に返信されるとイヤだろう」という気持ちがあるからだ。

チョッピー
チョッピー

チョッピーはTwitterをいまだに「独り言をつぶやくサービス」だと思っています。Twitter社は公式サイト上で「We serve the public conversation」と書いているので、彼ら自身の認識はいつの間にか「つぶやきの場」ではなくて「公的な会話の場」に変わっているようですが…。

DMも滅多に使わない。「独り言をつぶやいている人に個人あてのメッセージを届ける」のには狂気を感じるからだ。そういうつもりでやってない。

なので、だれかのつぶやきに何かを言いたい場合は引用RTという形で反応している。「どこかからこんなつぶやきが聞こえてきた。僕はこう思うかな」という形で新たな独り言をつぶやいている…という認識だ。

他には「これは!」と思ったイラストに「いいね」をつける使い方もしている。

チョッピー
チョッピー

余談ですが「いいね」は僕にとっての「いいね」なので、他の人のTLに僕の「いいね」を流す機能は本当に廃止してほしいと思っています。僕の「いいね」は他の人にとっての「いいね」ではないし、他の人にも見せたいツイートの場合は普通にリツイート機能を使うので。「僕が何に対して『いいね』と思っているのか」をワザワザ公開してくれなくていいです。この機能がサービスとしての拡散力に寄与しているのはわかるんですけどね…。

で、この「いいね」なのだが…最近、イラストに対する僕の「いいね」が減っているのだ。

いらない審美眼がついてきた?

少し前までは、好みのイラストがあれば節操なくなんにでも「いいね」を押していた。「いいね」と思っていたからだ。

が、ある時、ふと、とあるアカウントに対して「このイラストアカウント、いつまで経っても全く上手くならないな…」と感じてしまった。

どうも、それ以来、そのアカウントがアップするイラストを見る目が厳しくなってしまっている。今はそのアカウントが挙げるイラストに「いいね」はほとんど押していない。

で、最近はその感覚が他のアカウントのイラストに対しても広がっている気がする。どうも「お、良い感じのイラストだ! いいね!」ではなく「お、良い感じのイラストだ! いい…気がするけど…うーん…? よく見るとバランスが変だな…手の書き方とか雑だし…。…うん、このイラストは良くない!」という感想になってしまっている。

チョッピー
チョッピー

自分は絵なんか書けないくせにね

そうなのだ。僕としては審美眼には2種類あると思っている。自分のアウトプットに対する審美眼と他者のアウトプットに対する審美眼だ。

自分が作るアウトプットに対する審美眼はどれだけ厳しくなってもいい。それがアウトプットの品質向上に役立つ可能性が高いからだ。

だが、他者のアウトプットに対する審美眼が厳しくなっても、あまり良い事はない気がする。特に消費者として他者のアウトプットを楽しむ場合には本当に不要だと思う。基本的には「なんでも楽しい!」というスタンスで生きている人の方が人生を楽しく生きられる気がする。

チョッピー
チョッピー

批評家として生計を立てられるのであれば話は別かも知れませんが

「楽しく生きる」を邪魔してくる審美眼なんていらないんだよな…。

もう一歩、踏み込みが必要

上で「いらない」と評した他者のアウトプットに対する審美眼。ただ、いくら「いらない」と言っても身についてしまったモノは仕方がない。今はいっそのこと、徹底的に審美眼を磨いてみようかな…と思っている。

たぶん、そうすればどの様なアウトプットに対しても「確かに全体的には微妙だが、これはこれで○○な良い点がある。ある意味、趣深い」という楽しみ方が出来るようになると思うだ。

実際、僕は音楽に対して上の様な好みの変節を経験している。高校生まではオールジャンルの音楽を聴いていたのだが、大学生になってから6年くらいは特定ジャンルの曲ばかり聴いていた時代がある。

チョッピー
チョッピー

具体的にはメタルとかハードロックとかです

その後、また、オールジャンルに戻ってきた。今が一番(音楽的には)豊かな感性になっていると思う。

この考え方はきっと、音楽以外の分野に対しても適用できるのではないかと思っている。さらにこれを拡張すれば「多様性に対する許容度の向上」にも繋げられるのではないか…と僕は考えているのだが、どうだろうか。

本日の締め

今回は僕の考える「多様性を身に着けるために役立つ考え方」についてのお話を書いてみました。

導入部であまりに本題と異なるお話を書いてしまったので「大丈夫か、この話。ちゃんと着地するのか」と戦々恐々としていたのですが最終的にはキレイな着地に納める事が出来ました。…少なくとも僕はそう思っています。

本日もふらとぴにお越し頂きありがとうございます。

「イラストに対する審美眼を鍛える!」と言ったはいいモノの、実はその鍛え方はわかっていません。

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